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2014年11月 7日 (金)

あなたは何者?発達障害参考動画

2013年11月29日 (金)

φ(..)メモメモ 発達障害

http://digitalword.seesaa.net/article/196305233.html

[発達障害(developmental disability, developmental disorders)] 発達障害(developmental disability, developmental disorders) 発達障害(developmental disability)とは、何らかの要因によって正常な心身の発達プロセスが障害された状態であり、1980年代以前には『精神遅滞・発達遅滞』という概念で主に知的障害の事を指していた。現在では、精神遅滞や知恵遅れといった差別的意図を感じさせる概念は用いられなくなり、『知的障害』というカテゴリーでまとめられているが、通常は知的障害のみを持っている子どもは発達障害には含めないようになっている。 かつての曖昧で多義的だった発達障害の原因には、『遺伝的要因・器質的要因』と『心理的要因・環境的要因(社会的要因)』の両方が想定されていたが、現在の発達障害では『遺伝的要因・器質的要因(脳の障害)』などの生物学的原因によって発症するものだけが発達障害として定義されている。即ち、育てられた家庭環境の機能不全や幼少期に経験したトラウマなど、『後天的な心理社会的要因』による発達障害に類似した問題症状の発生は発達障害には含めないということである。発達障害の原因は、『遺伝・体質・器質(脳機能の成熟障害)・乳幼児期の怪我や疾患』などの生物学的要因に限定されている。 現在の精神医学で『発達障害』として分類されているものには以下のようなものがあるが、その中心的な障害概念を形成しているのは、社会性・言語能力・想像力(共感性)の獲得が困難で他者とのコミュニケーションを円滑に行うことができない『広汎性発達障害(PDD:Pervasive developmental disorder) 』である。知的障害(精神遅滞)のみでは発達障害とは呼ばないが、知的障害がある発達障害を『重度発達障害』、知的障害のない発達障害を『軽度発達障害』として分類することもある。 広汎性発達障害(PDD:Pervasive developmental disorder)……自閉症の各種の特徴と重症度のグラデーション(段階性)を持っているという意味で『自閉症スペクトラム』とも呼ばれる。広汎性発達障害に分類されるものには、『カナー型自閉症(知的障害のある自閉症)・高機能自閉症(知的障害のない自閉症)・アスペルガー症候群・小児期崩壊性障害(CDD:Childhood Disintegrative Disorders)・レット障害(Rett's Disorders) ・特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS:Pervasive Developmental Disorders Otherwise Not Otherwise Specified)』などがある。 学習障害(LD:Learning Disabilities)……先天的要因によって、学習能力が低下したり学習が困難になったりする障害。学習障害に分類されるものには、『読字障害(ディスレクシア, Dyslexia)・計算障害・書字表出障害・特定不能の学習障害』などがある。 注意欠陥多動性障害(ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorders)・破壊的行動障害(DBD) ……生物学的要因によって、落ち着いてじっとしている事ができずに動き回る多動症状があり、一つの物事に注意・意識を集中して取り組むことが難しい発達障害を『注意欠陥多動性障害(ADHD)』といい、部屋の掃除やモノの整理などができないという特徴を持つ。破壊的行動障害(DBD) というのは、社会的なルール・権威を無視して社会規範・倫理規範を守ることができずに、他者の権利・身体を侵害する反社会性を示す発達障害である。破壊的行動障害(DBD)には、『反抗挑戦性障害・行為障害』などがあり、反社会的・攻撃的で冷淡なパーソナリティが悪化すると『反社会性人格障害』に至ることもある。 運動障害……発達プロセスにおいて感覚機能と運動機能を協調させることが困難になり、ぎこちない運動しかできない『発達性協調運動障害』がある。 広汎性発達障害(PDD)と自閉症スペクトラム・アスペルガー障害:1 前回の記事では、発達障害の定義と種類を説明したが、ここでは広汎性発達障害の症状と問題について整理したい。広汎性発達障害(PDD:Pervasive developmental disorder)の典型的な状態像として、『自閉症スペクトラム』がある。自閉症スペクトラムというのは『自閉症的な症状・特徴・重症度』に連続的で段階的な幅の広がりがあって、健常者~重症自閉症までの境界線が明確ではないという事である。 スペクトラム(spectrum)というのは『連続体・多様性』という意味であり、国際疾病分類のICD-10では広汎性発達障害を『相互的な社会関係とコミュニケーションのパターンにおける質的障害、および限局した常同的で反復的な関心と活動の幅によって特徴づけられる一群の障害』として定義している。 児童精神科医のレオ・カナーが1943年に報告した自閉症(Autism)は自閉性障害(Autistic Disorders)とも呼ばれるが、集団生活に適応するための社会性の障害や他者と意思疎通・感情交流をするためのコミュニケーション能力の障害、常同行為(こだわり行動)を繰り返すイマジネーションの障害などの特徴を持っている。レオ・カナーが発見した『カナー型自閉症(早期幼児自閉症)』は知的障害を伴う低機能自閉症であり、他人に対する興味関心が極端に乏しく、自己の内的世界に閉じこもって他者との情緒的交流が難しいという問題があり、言葉の遅れ(言語機能の低さ)や心の理論の障害(他人の気持ちを推測できない)などの問題が見られた。 自閉症の症状には『言語の発達の遅れ・感情的交流や意思伝達の困難・相手の内面や立場を推測できない(心の理論の障害)・反復的な常同行動・行動様式や興味の対象が極端に狭い・極度の自己中心的思考・被害妄想』などがある。他人と目を合わして話すことが出来なかったり、場面に相応しい表情や態度を取れなかったりすることで(怒られているのに笑っているなど)、社会性(集団適応性)の獲得が困難になり、発達年齢に応じた友人関係を作ることも難しくなってしまう。 言語能力の発達に遅れがあったり、他人の言葉をそのままオウム返しするだけのエコラリアが見られたり、興味関心の範囲が極端に限定されていて、気に入ったこだわり行動(常同行動)をいつまでも繰り返したりする。特定の音、光、匂い、触覚などに対する感覚過敏性が見られることがあるが、一般的に音を耳で聴く聴覚よりも目で見る視覚のほうが発達しているので、その『視覚優位性』が特別支援教育でも利用されている。自閉症児に『注意・指示』を与える場合には、紙などに文字・イラストを書いて見せると効果があるとされているが、知的障害・言葉の遅れが見られない『高機能自閉症・アスペルガー障害』では、言葉で話しかけたほうが注意・指示の意味が伝わりやすいこともある。 『自閉症・アスペルガー障害』において、対人関係やコミュニケーションの障害が深刻になりやすいのは、『心の理論』と呼ばれる自他の相互性や感情・意図を理解するための精神機能が障害されているからだと考えられている。『心の理論』とは、自己と他者をきちんと区別して、相手の立場や感情、意図を状況に見合った形で適切に推測できる精神機能であるが、自閉症スペクトラムにある人はこの心の理論が障害されているので、『他者の感情・意図』を上手く推測することができず、その場面でその相手に言うべきではないことを無神経に言ってしまいやすいなどの問題が出てくる。 人間関係の相互性を理解することが難しいので、会話の内容やその場の雰囲気を察して、適切な応答をすることができなかったりする。ユーモアや冗談、軽口のニュアンスも理解することが出来ないので、冗談で言ったことを真に受けてしまって怒ったり恨んだりするようなことがあり、『言葉を額面通りに受け取る・そのままの文章として理解しようとする』などの問題が指摘される。周囲の空気を読んで自分を合わせたり、『言外の意味』を暗黙の了解で察知したりといったイマジネーション(想像力)を働かせることができないので、相互的な対人関係に上手く適応できないといったコミュニケーションの障害が起こりやすいのである。 それ以外にも、自閉症には『時間概念の形成不全・時間への強迫的なこだわり』といった問題があり、時間の概念が理解できない自閉症児がいる一方で、『一分一秒のズレ』も看過できずに決められた時間通りにパターン化された行動を取ろうとする強迫観念・強迫行為が見られることもある。 自閉症児は『習慣的・定型的な行動パターン(決まりきった繰り返される行動パターン)』に対する強いこだわりを持っていることが多く、『未経験の事柄・予想外の状況・急な予定の変更・こだわり行動の抑止』などに対して適切な反応ができず、パニック状態になって奇声を発したり暴れてしまうこともある。その背景には『ストレス耐性・フラストレーション耐性の低さ』といった生物学的条件が関係しているが、自閉症の日常生活ではその子どもが重視している『習慣的・定型的な行動パターン』や『こだわり行動(常同行動)』に対しての配慮も必要になってくる。 --------------- 広汎性発達障害(PDD)と自閉症スペクトラム・アスペルガー障害:2 この記事は、[前回の記事]の続きになっています。自閉症(自閉性障害)の医学的診断は、DSM-IVやICD-10の診断基準に基づいて行われるが、DSM-Ⅳで採用されている診断名には『自閉性障害・アスペルガー障害・他に分類されない広汎性発達障害=PDD-NOS」)』がある。 ICD-10で採用されている診断名には『小児自閉症・アスペルガー障害・非定型自閉症』がある。知的障害の有無は診断には直接影響しないが、知的障害・言葉の発達の遅れが見られないIQ70以上のアスペルガー障害などの自閉症スペクトラムを指して、『高機能自閉症(HA:high functioning autism)・高機能広汎性発達障害』という呼び方がされることもある。知的障害のある自閉症は、『低機能自閉症・カナー型自閉症』と呼ばれる。 DSM-Ⅳによる自閉性障害の診断基準は以下のようになっている。 A:下記の3領域で合計6項目以上、その内で少なくとも[1]から項目以上、[2]と[3]からそれぞれ1項目ずつ当てはまる症状があること。 [1]以下の4項目のうち、少なくとも2項目以上当てはまる症状があること。 ○社会性の獲得に関する問題 ・視線が合わない、視線が合いにくい、アイコンタクトが通じない、相手の表情・身振りを読み取れない。 ・年齢に応じた人間関係を作れない。 ・興味のある物を見せたり、持ってきたり、指差す行為が乏しい等、楽しみや興味を他者と共有しにくい。 ・他人への関心が乏しい(特に同世代の子と一緒に遊べない)、関心はあっても関わり方が一方的である。 [2]以下の4項目のうち、少なくとも1項目以上当てはまる症状があること。 ○コミュニケーション能力の問題 ・指差しやジェスチャーなどの開始が遅い、発語が遅い、二語文につながらない、又は話し言葉が完全に欠如している。※一般的に2歳までに単語、3歳までに二語文が出ているかどうかが、言葉の発達の遅れの目安となる。 ・発語はあっても会話が成り立ちにくい、自分の好きなものの話ばかり一方的にする、独り言が多い。 ・エコラリア(オウム返し)や遅延エコラリア(全く関係のない場面で以前に聞いた言葉を言う事)が多い。 ・他人とやり取りをしながら展開させていくタイプの遊び(ごっこ遊び・ものまね遊び)が、年齢相応に出来ていない [3]以下の4項目のうち、少なくとも1項目以上当てはまる症状があること。 ○想像力(イマジネーション)の問題 ・興味や関心が限定的で、一つの事にひどく執着する(こだわり行動が見られる)。 ・特定の習慣や儀式に固執する、些細な事でも予定に変更があるのをとても嫌う。 ・常同行動(くるくる回る、手をヒラヒラさせたり指をねじ曲げる等の常同的・反復的な運動)がある。 ・特定のものを持ったり、見たり、集めたりする事に持続して熱中する。 B:Aに挙げた『社会性・コミュニケーション能力・想像力』の症状のうち、少なくとも1領域以上で3歳以前から遅れや異常が見られること。 C:小児期崩壊性障害、レット障害の診断基準には当てはまらない事。 ---------------------------------------- ハンス・アスペルガーの“アスペルガー障害”とローナ・ウイングの“ウイングの3つ組” オーストリアの精神科医ハンス・アスペルガー(Hans Asperger, 1906-1980)が1944年に発見したアスペルガー障害(アスペルガー症候群)の概念を普及させたのは、イギリスの女性精神科医のローナ・ウイング(Lorna Wing, 1928~)だった。 1944年当時、H.アスペルガーは現在のアスペルガー障害のことを『自閉的精神病質』という疾病概念で呼んでいたが、その特徴は『共感能力の欠如・友人関係を作る能力の欠如・一方的に話し続ける会話・特定の興味関心への極めて強い集中(固執)・ぎこちない動作』などであった。H.アスペルガーは、コミュニケーション能力や社会性の獲得、興味関心の広さなどに特異的な行動パターンが見られるとし、『自分の興味のある事柄』については非常に高い集中力を発揮して、相手の反応を無視して一方的に捲くし立てるように話す特徴(自分の話したいことだけを一方的に話し続ける特徴)があるとした。 1981年にローナ・ウイングがH.アスペルガーのアスペルガー障害に関する研究業績を紹介したことで、『アスペルガー障害』の認知度が高まることになるが、自閉症との差異として『知的障害・言葉の発達の遅れが殆ど見られない事』がある。そのため、アスペルガー障害は高機能自閉症に分類されることもあるが、知能指数が平均以上に高いアスペルガー障害の人でも、他人の気持ちや意図を適切に推測できないなど『対人関係・コミュニケーションの問題』を抱えているので、社会的・職業的な支障(人間関係が上手くいかなくて安定的に働くことができない等)が起こってくることが少なくない。 L.ウイングがアスペルガー障害を含む自閉症(自閉傾向)の中核症状として定義したのが『ウィングの3つ組』であり、それは『対人関係の障害(社会性の障害)・コミュニケーションの障害(言語機能の発達障害)・イマジネーションの障害(こだわり行動と興味の偏り)』の3つの特徴的な障害を指している。 対人関係の障害では、アイコンタクトができなかったり、相手の表情や態度、ボディランゲージなどの非言語的コミュニケーションを活用できないために『相手の意図・感情』を正しく推測できなかったりすることがあるが、これらの対人関係の障害は上記したように、相手の感情・意図を推測するための『心の理論』の障害によって生まれていると考えられる。『行間・空気・ユーモアを読むコミュニケーション』や『暗黙の了解(世間的な常識)を前提としたコミュニケーション』ができないために、対人関係でトラブルを起こしやすいというのが、アスペルガー障害が原因になって起こる問題の典型である。 ------------------------------------- ローナ・ウイングの“アスペルガー障害・自閉症スペクトラム”とDSM-Ⅳによるアスペルガー障害の診断基準 前回のアスペルガー障害の記事と関係するが、L.ウイングは更に自閉症スペクトラムの人の対人関係のあり方を観察して、『孤立群・受動群・積極奇異群』の3つのグループに分類している。 1.孤立群……他人に対する興味関心そのものが無いか乏しい群。知的発達に重度の遅れ・障害があったり興味関心の偏り(制約性)が強い場合に起こりやすい。 2.受動群……人から指示されたり言われたことに従いやすい受け身の群。不適応な問題行動は一般に少ないのだが、青年期に対人関係や社会活動への消極性(非自発性)が問題になってくることがある。 3.積極奇異群……自分の興味関心があることだけを、相手の反応を考えずに一方的にしゃべるような群で、コミュニケーションをしている相手に対して『奇異・風変わり』といった印象を与えやすい。 L.ウイングは自閉症スペクトラムの人のコミュニケーションの障害について、以下のような特徴を指摘している。 1. 話し言葉(音声言語)を適切に使うことが困難である。 2. ある事象を特異な自分なりの言い回しで表現する。 3. 助詞の誤用がある。 4. 話し言葉を適切に理解することが困難である。 5. 言語の理解に遅れが見られなくても、字面通り(文章のまま)の解釈をして想像力に乏しい。 6. ユーモアや冗談をなかなか理解できない。 7. 独特なイントネーションで話したり、不必要に大きな声でしゃべったりする。 8. 非言語的コミュニケーション(表情・ジェスチャー・態度・仕草を用いたコミュニケーション)の使用と理解がほとんどできない。 DSM-Ⅳによるアスペルガー障害(アスペルガー症候群)の診断基準は以下のようになっている。 A:下記の項目のうち、少なくとも2項目以上当てはまる症状があること。 ○社会性 ・視線が合わない、視線が合いにくい、アイコンタクトが通じない、相手の表情や身振りを読み取れない。 ・年齢に応じた人間関係が作れない。 ・興味のある物を見せたり、持ってきたり、指差す行為が乏しい等、楽しみや興味を他者と共有しにくい。 ・他人への関心が乏しい(特に同世代の子と一緒に遊べない)、関心はあっても関わり方が一方的である。 B:下記の項目のうち、少なくとも1項目以上当てはまる症状があること。 ○想像力 ・興味や関心が限定的で、一つの事にひどく執着する(こだわり行動・常同行動)。 ・特定の習慣や儀式に固執する、些細な事でも予定に変更があるのをとても嫌う。 ・常同行動(くるくる回る、手をヒラヒラさせたり指をねじ曲げる等、常同的で反復的な運動)がある。 ・特定のものを持ったり、見たり、集めたりする事に、持続して熱中する。 C:学校や職場等で、明らかに不適応を起こしていること。 D:言語の遅れが無い(2歳までに単語、3歳までに二語文が出ている)こと。 E:社会性以外の発達に明らかな遅れが無いこと(但し運動面の発達に関しては多少遅延する場合もある)。 F:他の特定の広汎性発達障害や統合失調症の診断基準には当てはまらないこと。 -------------------------

2013年11月25日 (月)

考えるヒントに (就職、人生、生きる、生活、幸せ・・・について)

何のために勉強するのか、就職するときにどうしたらよいのか、ひいては何のために生きるのか。。。そんな事を考えるようになったらみて下さい。

自分の考えを深めるヒントにして下さい

ソウル大学の教授の授業です。

※わが子にまずは見て欲しいが、他の皆様のためにもなると思います

2013年9月 2日 (月)

備忘-野口晴哉(のぐちはるちか)

ここからの引用です。

備忘のために記しています

<内容(「BOOK」データベースより)>
野口整体の思想をベースにしながらも、独自の整体技術を創り上げてきた著者が、この息詰まる社会を生き抜く気的方法=「共鳴」についてわかりやすく伝える。
また、「体癖」、気的に見た現代社会の人間像など、整体から見えてくる世界をガイド。
四季の体の変動と手当て、脊椎それぞれの働きとこころの関係など、整体の現場を案内する。 

<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)>
片山/洋次郎
1950年川崎市生まれ。東京大学教養学部中退。現在、気響会整体道場を主宰。
20歳代半ば、自身の腰痛をきっかけに“整体”に出会う。
その後「野口整体」の思想に触発されながら独自の整体法の技術を創り上げ、
21世紀を身体がものを言う時代ととらえ、身体の現場から「身も心もチョッと楽になる方法」を提言している。
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体を整える「整体」。整体には、色んな流れがあります。

自分の個人的な知り合いには野口晴哉先生が創始された「野口整体」をされる方が偶然多いですが、有名な「野口整体」以外にも、伝統中国医学の手技療法、欧米伝来の手技療法(オステオパシーやカイロプラクティック)、日本武術からくる手技療法(骨法・・)・・・・などが複雑な形で混合しています。それぞれの整体はそれぞれ独自な思想の下、独自の手法、理論があり、元祖や本家などと優劣をつけれるものではなく、それぞれの個人が自分にあった形で、それこそ身体と対話しながら深めていくものかと思います。最終的には「自分の体の声を聞く」ことが大事だと思います。

脳でいくら制御しようとも、体はいつも正直に何かに反応をしています。そのことに素直に耳に傾けて、そこに意味や指針を見出していくことは重要です。
「身体」に素直に向き合うと、身体には僕らが見落としている(脳が気付かないふりをしている)大切なものがたくさん含まれていることに気づきます。
それは、西洋医学のように人体を部分的にとらえる学問・学派が、素直に学ぶべき点ですね。
そういうことで、自分は代替医療の本を数多く読み、その中には未来性や創造性を常に感じるのです。



片山洋次郎さんは「野口整体」がベースにありますが、「整体」や「気」を語る語り口はとても面白い。
時代には時代特有の語り口というものがあるようで、片山さんには時代と呼応したものを感じます。読んでいて素直にとても勉強になります。

この本はかなり面白いです。とてもすべてを紹介しきれませんが、特に興味深かった点をご紹介します。


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よく生きるためには、「息が詰まる」「気疲れ」するような閉鎖的で硬直した同調を強いるような場ではなく、「乗り降り自由」「出入り自由」のゆるやかで開かれた共鳴の場が必要です。
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この本でのエネルギーという言葉は、物理概念としてのエネルギーというよりは、身体感覚としてエネルギーの充実・集中・発散・流れといったものが体験的に感じられるという意味で、具体概念というよりは気的体感の一側面として比喩的に使っています。
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「気」とは、心身のあいだ、体内諸器官のあいだ、人と人のあいだ、人と環境のあいだに響きあう何か。
「気が合う」のは意識や意図以前に互いに「合って」しまうもので、「気が付く」のも思わず自然発生的に立ち現れるものであり、「気持ちいい」も心持のことであり、身体そのものの気持ちいいとしか言いようのない感覚でもあり、居場所(環境)そのものの気分の良さでもある。

意識‐身体‐環境のどこかに主体があるとも言えるし、どこにも主体がないとも言えます。
この身体の内側から湧き上がり、のびのびと何か(=気)が世界に広がることが、深く息をしているということであり、安心感そのものであり、良く生きることそのものでもあります。
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人と人、人と動物、植物、モノ・・・その間に何らかのつながり、連続性、浸透性を実感する瞬間がある。
この互いに共鳴し合う作用が、あらゆるものが「存在」するということへの根本であると思っている。
この共鳴する作用あるいは働きあう意思を「気」と呼びたい。
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元気がないということは周りの世界とのつながりが良くないということだし、元気があるということは周りの世界とのつながり具合が良いという風に言い換えられる。
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→著作では「気」の説明から始まります。
仏教でも、それぞれは実体的で固定的な主体などなく、相互の間にある関係性(inter-being)で生まれる便宜的・仮想的なものである(縁起、無我・・)と主張しますが、そういう関係性そのものを「気」と言う空間で満ちたもの、と捉えると分かりやすい。
片山さんは、関係性の中での「共鳴」という現象を繰り返し大切にしています。その共鳴の媒介になるのが目に見えない「気」(関係性)。この考え方はとても分かりやすいです。
「共鳴」は自分と他者や環境とでも起こりますが、自分の中でも起こります。臓器や細胞同士や感情もそうでしょう。




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生まれたばかりの子供はいい子も悪い子もなく、偏見も信仰も自己意識もなく、世界と完全に共鳴している。
しかし、人の場合はこの「あるがままの自己」のまま生きてゆくことはできない。
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後で経験的に分かってきたのだが、言語を持たない子供たち(自己を強く持たない、自己が希薄)は、みな気的コミュニケーション(共鳴力)を持っている。
実はその子達によって気的世界に招き入れられたのだ。
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役に立つ、自己主張がある、という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。
気的コミュニケーションは誰でも意識下に行っていることなのだが、それは自己を強く持とうとしたり、人を支配しようとするほど弱くなり、自己を希薄にするほど強くなる。
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共鳴関係(ゆるやかな間合い)はエネルギーの発散を促し、緊張関係(緊密な間合い)はエネルギーの集中を促す。
生きるということは不断のエネルギーの集中(緊張)を必要とするが、その裏には必ず発散があって、「発散・共鳴」というカオスをはらむほど、より思い切り生きられるのである。
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→共鳴することは、境界をなくすことにも通じます。
私とあなた、私と環境・・・・、のように「と(AND)」で仕切りされ区別されたものではなく、「わたしあなた」「わたしかんきょう」のように「とAND」で区切られないひとつとして感じられるとき、そこに共鳴が起きていそうです。

そんな人は、一般的には変な人とされたり、社会的に阻害されたりすることがありますが、本当は、木や森のような自然物のように共鳴しやすい環境や場を作り出している重要な存在なのだ、と気付けば、人を見る目も180度変わります。



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整体の場での身体の観察ということは、共鳴(一元化)と観察・客体化(二元化)も往復運動である。
自己とそこに立ち現れる「第二の自己」との差異を解釈するということをやっているようにも見える。
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共鳴によって新たに身体が向かう方向というのは、身体が潜在的に向かいたい方向である。
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完全に共鳴するということはある意味では「自分」を失うことでもあるから、今保っている自己を無意識に守ってしまおうとするのである。
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→共鳴というのは、「わたし」というものをどうとらえていくのかとも関係しそうです。
「わたし」を可変的で可動的なものとして捉えることで、バームクーヘンのように「第二の自己」「第三の自己」・・・という重層的な「わたし」の構造を発見することにつながります。




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頸椎(C)は意識のコントロール。
首の動きでいえば、頸椎2番(C2)は首の上下の動き、C4は左右の動き。C5はねじり、C7は前後のバランスに関係する。
知覚でいえば、C2は視覚、C3は嗅覚、C4は聴覚。
意識でいえば、C2は意識の集中全体、脳と体全体のつながり、まとまり、意識の覚醒と休眠。C3はエネルギーや意識を何かの方向に向けることやしぼること。C4はタイミングをはかること。C5は首の弾力、バランスの中心。C6は飲み込む働き(意識の面では受け入れる、納得する)。驚いて首をすくめるのはC6の緊張。C7(胸椎1番と連動)は間合いをはかる、関係を調節、距離や程度を考えることに関係する。積極性。

首の動きは、自分を現実に適応させたり対応させるときの意識の動きに直接に応じるものだ。
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胸椎(Th)は感情と食べること。
食べるということは、モノとの間合いが一番近い関係といってよく、執着と関係がある。
意識の緊張度が高く、エネルギーが発散しにくいとき、食べてしまうと発散する。つまり、緊張感をゆるめたいということと食べたいということは強い関係があって、代償行為になる。エネルギーの集中度が高いときには食べたくなくなる体質の人もいる。
食道の動きは胸椎4番(Th4)に関係がある。
Th4は感情にも関係があるので「愛と哀しみの4番」と呼んでいる。
胸が痛い、胸が詰まる。食べることでTh4がゆるみ、楽になるパターン(やけ食い)が出てくる。
胸椎7番(Th7)は力の中心。身体的なショックを受けた時はTh1の力が抜けて引っ込み、Th7は硬化して肋骨全体が下がり、胸が小さくなり体全体も小さく見えるようになってしまう。
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唇をすぼめると会陰(骨盤の底)も同時に緊張し、丹田(下腹部)にエネルギーが集中する。
その後、唇の緊張が緩み、息を吸い込むと同時に会陰の緊張がゆるみ、頭頂も緊張が緩んで発散しやすくなる。食べる場合も、緊張の強い人ほど息を止めて一気に食べようとする。
頭頂の緊張が強いと唇の筋肉が硬くなるので、思い切り大きく口を開けたり、唇の端を両側に指で思い切り引っ張ってからゆっくりゆるめてやると、頭の緊張がゆるむ。耳も同様。おしゃべりや歌を歌うことも同じ効果がある。歌う前に頭の緊張をゆるめておくと、喉の奥がよく開き声がよく出る。
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胸椎11番(Th11)はストレスに対抗する。副腎に関係があり、闘争性や耐性を高める。ホルモンの調節に関係している。
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野口晴哉「体全体の構造1」
『吸収力の旺(さか)んすぎる体は胸椎11番に過敏があります。
吸収力の遅くなっているものは、胸椎11番に可動性がなくて胸椎3,4番が過敏になっています。』
野口晴哉「体全体の構造2」
『胸椎11番が正常な人はお腹が空いても平気なのですが、胸椎11番の可動性の鈍い人は一食抜いても目が回るのです。』
野口晴哉「体全体の構造2」
『胸椎11番というのは卵巣と関連があるのです。一側および棘突起です。
月経のない人が多いが、11番を刺激するとはじまります。』
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胸椎11番(Th11)と対照的な働きをするのが胸椎5番(Th5)で、闘争的、愛憎的な激しいエネルギーの出し方ではなく、他と共鳴しながら全体的にエネルギーを無指向的に発散する。情報の受容発散中枢である膻中(だんちゅう)。
Th11の十分な弾力があれば過剰な情報をブロックできるが、あらゆる情報を過剰に受け入れ異常な興奮をするパニック障害になる。気功法では唾液を出して飲み込むことをエネルギーを高めるものとして奨励するが、唇をなめたり動かしたりすることはTh11の刺激になっている。
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腰椎(L)は心身の一体感。
L2-3の間の両側のツボを腎兪というが、気功の中ではこの気の流れを先天の気として重視している。体のあらゆる気の流れの源。性エネルギーそのものとしても見られている。あらゆる動きがL2-3(みぞおちと臍の中間点より少し下)を中心にして動いていれば美しく見える。動きのバランスが崩れても、ここの弾力があれば復元力もある。らせん運動に生命力を感じるのもL2-3の働きに関係がある。

野口晴哉先生はみぞおちを腹部第一、臍より少し上を腹部第二、臍より少し下を腹部第三と呼んだ。上丹田、中丹田、下丹田。
第一がエネルギーが虚(力が抜けている)、第三が実(集中)の状態でバランスが取れ、第二が一と三の調節をしている。これは、頭部の虚、下丹田の実、それを調整する中丹田(胸の膻中(だんちゅう))とパラレルで連動している。
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→西洋医学にはない、こういう身体の捉え方はとても面白く新鮮で、学ぶことが多いです。
「愛と哀しみの胸椎4番」
人間を真面目に観ているひとは、いかに人間が途方もなく謎に満ちた存在であるかを痛感するかと思いますが、その謎のヒントもこういうところに隠れているのかもしれません。
詳細を学びたい人は、是非本を買って読んでみてください。




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高度情報社会では、身体は慢性的興奮状態にある。
エネルギーの流れでは、仙骨基底部から頭へ向かう流れが強くなる。
頭頂部と会陰の緊張が高まりエネルギーが発散しにくくなる。
ふつうは呼吸と同じように自然にエネルギーを集中し(頭頂、会陰緊張して閉じる)、発散している(頭頂、会陰弛緩して開く)。

呼吸との関連で言えば、普通は吸うときに緊張し、吐くときにゆるむが、意識的に集中しようとするとき(頭頂、会陰が先に閉じている)は、逆に息を吐くときにエネルギーがより集中する。
主体的に集中しようとするときは丹田のエネルギーも強いのでバランスが良いが、イヤなことで興奮させられてしまう場合は、頭によりエネルギーが集中しやすくなり、頭頂部がゆるまないと過換気になる。
意識的に発散させるには、お腹を風船をふくらますような感じに息を吐く。みぞおちとお腹の中間を水平に輪切りにするイメージ。腰とお腹が温かくなり、手足や方の周りが涼しくなれば発散し始めている。
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生きるということは、エネルギーの自律的集中‐発散の場を維持するということであって、興奮と弛緩の波がある。
人が死ぬと、肛門と瞳孔が開きっぱなしになえう。エネルギー発散しっぱなしの状態である。
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笑いはエネルギーの盛り上がり途上で集中状態を外して急に発散状態になったときに起こる。
笑うほど、発散しながら興奮が高まっていくが、笑いそのものは発散である。
あまり笑いすぎると涙が出てくるが、これは興奮をしずめる反応である。
生きている手ごたえや実感というのは、興奮(集中)と弛緩(発散)の加速の瞬間にある。
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小指はエネルギーを集中しようとする動きの中心であって、剣道でも竹刀は小指を中心に握る。相撲でもまわしを引くのに小指に力を入れる。
小指を握れば集中。開けば発散。整体で相手との間合いを取るのに、小指がL1と連動してバランスを取る。
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手首の内側ねじりがエネルギーの集中であり、外側ねじりが発散である。
沖縄の手踊り。阿波踊り。体全体をねじる動きは最もエネルギーを集中する。
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春はゆるんで力が抜けることが肝要である。
ゆるみがスムーズにいくには右手三里、右足三里にフワッと触れて気を通しておくと全身の気の発散が起こる。

夏はエネルギーがこもりやすい。汗をかくが、熱を発散させやすい体に変わる。ふくらはぎの筋肉を思い切り伸ばしたり(硬くなっていると痛い)、足首をお湯で温めると足の裏からのエネルギーの発散がよくなり涼しい感じがする。汗をうまくかければ胸の硬いのもとれ、胸に熱がこもることもなくなる。
季節の変わり目には身体がねじれやすい。左右のバランスが崩れてねじれが生じる。
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→瞼から何個も鱗がポロポロ落ちてくるほど、何か思い当たる。腑に落ちる説明が多いです。

現代のような高度情報化社会は、確かに無意識でものすごいエネルギーを受けていると感じます。
目に見えないだけで無線LANや電波が空中を飛び交っているわけで、
脳だけでもクラクラするものを時に感じますが、無意識のシンボルである身体は、さらに過剰なエネルギーを受けているんでしょう。

笑いを、エネルギーの集中が発散状態になることと対応するのは確かに、と思った。
緊張と緩和、とはよくいいますし、笑いは身体全体の素直な声なのかもしれません。


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解決がつかない問題というのは無意識のうちに考えないようにしているということ。
解決がつかないということは、今とりあえず考えうるあらゆる要素を動員してもどうにもならないということだ。
結局は、何らかの形で解決はついてしまう。どうにかなる。良いにしろ悪いにしろ終わりがある。

悩んでいるときはそれが一生続くような気がするものだ。
それはむしろ、身体のバランスによっているとみることもできる。
実際に体のバランス(L2-3を中心とする弾力)が良くなると、同じ環境にあっても解決のつく問題に意識が向き始め、元気になってくる。
そして、どうにもならないように思えることは、予測のつかないファクターがやってくることで、結局は必ず解決がつく。
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いずれにしろ、悩みにしがみついていれば苦しい。
こういうときは周りのあらゆるものに間合いを知覚しようとしている。何か引っ張られているような感じ。モノの肌さわりが硬く、冷たく、よそよそしく見える。意識は前へ引っ張られているのに、モノが遠くにあるように見える。実際に後ろに少し引いたような姿勢にすると楽になる。

詳しく言えば、胸椎1番(Th1)(首の後ろの下の方)を中心に、後ろに引くような感じにしてフッと放す。弓を引いて放す感じ。持っているものを投げ出すような感じ。それから、やってくる何かを待つ姿勢にすると静かになる。静かな充実感、集中した感じになる。

そのとき、意識の中心は目の前から目の後ろの頭の内部に戻ってくる。
眉間を窓として見れば、窓の内側から外部を眺めているような意識に変われば、物事を落ち着いてみていることができるようになる。モノが温かく親しみのある感じに見える。窓が曇っている感じから、透明になり明るくなってくると心が晴れた、軽い感じになる。
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→本当に表現がうまい。身体にふっと落ちるような納得感があります。

悩みが体のバランスと相関関係にある、というのもよくわかります。
身体の調子がいいときは、ちょっとしたことなんてどうでもよくて、悩みすら存在しない。
反対に、身体の調子が悪いと、悩みではない問題を悩みとして作り上げて、維持して執着して、それに悩むことが身体を整えるプロセスの一環であるかのように、不安や悩みを保持し続けようとしますよね。鶏が先か、卵が先か。
そういう時は、とにかく自分の身体と向き合っていけば、身体の一器官に過ぎない脳の問題もある解決を見ていくような気がします。


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私は自立した意思をもっているのだろうか。
もしそうならば、なぜ潜在意識という闇があるのか。意味化できない意識があるのか。
もし完全に自他が区別されているものだとしたら、自己が自明なものでありすぎて必要のないことのはずである。
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意識は自己に中心を持つ波動と他の波動の間にある、双方の干渉し合う場にある。
ホログラムが二つの光源からくるレーザーの光の干渉の場で像を結ぶように、自他の際によって立ち上がる。

特にヒトの場合、純粋で素直な自己(他と完全に共鳴している自己)から大きく逸脱しようとする欲望がある。
つまり、完全な共鳴状態からのズレが自己として立ち上がる。
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世界からの屹立(きつりつ)・突出と、世界との共鳴・一体化という往復運動そのものが自己の場であり、自己を自己として区別し、世界を自己の下に秩序化する欲望と自己を他と一体化(無化)する欲望の往復運動、エネルギーの集中(自己化)、エネルギーの発散(一体化)が同時進行して、エネルギーの場を創り出している。

自己は不断に解体すると同時に生成している。意識の中心も意識の位置も不断に変化している。

生とは個の秩序を一定の範囲内に収れんさせる不断の運動である。
秩序形成する陽気(集中の気)と、解体・変化・加速させる陰気(発散の気)の両方のパワーが互いに競い合い高ぶるほど、思い切り生きているといえるわけで、病気などの体のパニックは、ある意味では体の浄化と新たなより良い秩序の獲得のための体の反応の在り方である。
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死に瀕した後で、逆に元気に生き生きとし、生命の輝きを見ることがある。
自己を失うことで新たな弾力のある秩序、大きな自由を持つ秩序を取り戻すことができる。
気的な共鳴、世界との一体化ということは、そのような死と再生の一つのサイクルとして、より深く生命力を掘り起こそうとする働きなのだ。
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芭蕉の言う「軽み」も、この意識の変化(意識と意識の間、意識の生成の隙間)と加速の瞬間に自由に軽やかについていく姿勢、あるいはそれを妨げない態度を言っているのだと思う。
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→世界を干渉しあう場と見たり、自己を世界との共鳴からのズレと見たり、新しい世界観や人間観を感じます。
生命や生死の問題も、世界や場との共鳴という観点から見ると興味深いです。

芭蕉の境地になんとなく憧れと尊敬の念を感じてしまうのは、その自由さや意識や存在の在り方に、直観的に圧倒的で崇高なものを感じるからだと思います。偏見や固定観念にとらわれない自由さ軽やかさに対して、無意識に僕らが惹かれてしまう事には、何か大きな意味があると思います。そういう身体的な反応は、体からの何かのサインであるとも言えますし。


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木村敏「生命のかたち/かたちの生命」
『自己が自己であるということは、自己が対象意識的な意思を捨て、対象との出会いの場で自己でないところの「なにか」の働きにまかせてタイミングを合わせ、そこでtrans-individualな響きと共鳴するところにのみ成立するものなのである。』
木村敏「生命のかたち/かたちの生命」
『分裂病という事態は、患者が臨床的に示す個々の症状とは関係なく、患者が世界とのあいだでこの「響き」と共鳴する働きに異常をきたしているような事態と言うことはできないだろうか。』
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白隠の公案「隻手音声(せきしゅおんじょう)」
(拍手するように両手を打つと音がする。その片手だけの音をどういう音か、という公案。)
隻手という自立した自己の不安定性と世界との間の響きと言ってもよいと思う。
脳が世界との共鳴という安定性にはまり切るのを拒否する形質を獲得してしまったために、ヒトは引き裂かれた存在になってしまった。
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仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
道元禅師「正法眼蔵(現成公案)」
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自他の分離と自他の連続という意識の二重性は、矛盾する側面を持ちながらも自己を両側面から作り上げている。

主客の分断と連続。
そこに身体がかかわる限り、純粋な分離も純粋な連続もなく、すべて分離(集中)と連続(発散)の振動のうちにある。
視覚と聴覚。映像と音楽。粒子と波動。言語と音楽。形象と色彩。秩序とカオス。子音と母音。拍動(リズム)と呼吸(こぶし)。
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→曹洞宗の道元禅師に関しては、また別のとこで色々書きたいです。
数学者の岡潔さんも、道元と芭蕉はものすごい境地に到達していた、と書いていましたしね。




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たとえば墜落した飛行機に乗りそこなった人は運がいいが、乗ろうとも思わなかった人はもっと運が良いのだ。
当たり前の人の当たり前の生活がすごいパワーと不思議に満ちている。

俳句は作家のオリジナリティーとか創造性とか前衛性とは本来違うところに活力がある。
むしろ時間的にいえば日常的瞬間の意識の変化、加速度への気づき、飛び込み、そこに時空の無限のサイクルのたたみこみを見る態度そのもの、そのような生き方、遊び方を言うのだろう。句はその日常を生きる身体が生みだすものである。
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恋愛の中では誰でも経験する事だが、その他のことでも根本的に求めるのは世界との一体性だと思うのだが、実際にはずれてしまう。
本当の要求は現象に隠れて見えなくなり、ほとんど意識されることもなくなってしまう。思いこみ、思い入れが強いほど難
しい。

「今までの人生の中で待っていたのはコレだ!」と思うような強い思い込みがある場合ほど難しいし、たぶん本物ではない。本当の体験はむしろ静かにやってくる。
あらゆる知覚、情報、知性といったものは自己と世界の間に壁をつくる。それはエネルギーをせきとめるダムのようなものであり、エネルギーのポテンシャルを高めるが、世界との共鳴を阻害する。
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→この辺りは、体験として理解するしかない個別なものの気がします。実際に自分の身体や肉体を動かしながら、そこに精神や心が随伴して連動して共鳴することをわが身で感じることが必要なのでしょう。整体もその手段のひとつ。自分にとっては登山やクライミングがその手段として機能しています。



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共鳴状態の中でも、自己が完全に世界に埋没融解してしまい、対象としての世界や自己が存在しなくなっている状態を「全共鳴」と呼んでおく。胎児、深い瞑想・睡眠状態などの場合である。エネルギーは集中すると同時に発散している。

これに対して、自己(意識)が有る程度残っていて(「低密度の自己」)、他者との間にもうひとつの自己が出現する状態を「対共鳴」と呼ぶ。
自己の密度が高く、世界と対峙している状態を「高密度の自己(「非共鳴的自己」)」と一応呼んでおく。

普通は対共鳴から高密度の自己を往復運動している。
エネルギーが高まると、この意識の落差も大きくなる。登山中の墜落体験などは、死と対峙するような状態だからこの過程が激しく起きる。
自己の中に折りたたまれ、圧縮された空間や時間が噴出し、意識の中に激しく顕現する。
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極限的な高密度の自己の高みから「自己投機」に突入すると共鳴状態に入るが、激しいエネルギーの発散が起こるので、もうひとつの自己としての対共鳴的自己が強く現れる。
つまり、エネルギーの流れが激しい程、世界と自己の間に生まれるもう一つの自己も、覚醒的である。
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この過程は、積極的にとらえれば生の生き生きとした側面なのだが、求めないのに孤独な高密度の自己になったり、勝手に崩壊してしまうとすれば、ただの苦行である。
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共鳴が深くなると、身体の中心線が明るくなり、左右にひろがってゆく感じがして、何もなくなっていく。自他の区別はなくなり、手ごたえはかすかなものになり、空間に拡散する。
それは自他を越えるもので、間合いは近づくのではなく遠くなるが、最終的には「間合い」自体も消滅する。
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共鳴するということに執着してしまうとダメなわけで、透明で無心な感じが一番良い。
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→登山での滑落事故や臨死体験などで「第二の自己」が立ち現われてくる現象を、こういう風に解釈するのは初めて読みました。とても面白い。
たしかに、登山の時には激しいエネルギーの集中と発散が繰り返されます。
自然との全共鳴が起きると、自然と自分が一つになったような感覚がします(もちろん、この感覚も後から思い返すとそう思えるだけで、その全共鳴の最中には深い瞑想状態のようなもので無念無想に近い状態です)。


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「障害」を持っているようにも見えず、幼児でもないが、共鳴力の高い人たちというのがある。
「障害」児や幼児がそうであるように、「自己」が希薄で「存在」を照らす鏡のような存在であり、無欲で透明感が高く、存在感は薄い。
誰にも存在価値を認められない場合も多く、気的に果たしている役割が大きいのに、それは目に見えないので無理解にさらされやすい。
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自他の区別が薄く、自己と世界が連続的なのである。
自己はエネルギーの集中する場であるから、当然エネルギーが集中しようとするのだが、集中すると同時に発散してしまって、一定の状態が長続きしないのである。

時間感覚で言えば、今の瞬間比重が大きく、過去はすぐ忘れるし、未来のことは考えられない。
空間的にいえば今いる「ここ」の比重が大きい。
つまり、「今、ここ」という場での反応が過剰で、それより他のことがずっと遠くに感じる。

自己に周りのあらゆる情報が流れ込んでは消えてゆき、止まるることがない。
意識が自己というより、自己と他者との間に移動しやすいので、話の主語(主体)があいまいになりやすいし、相手の気分がダイレクトに伝わって、自分の原因のないことで気分が変化させられるわけである。
さらに深く共鳴した場合は、互いにエネルギーの停滞が発散され、相手が浄化される。
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自己の希薄な、気的に過敏な存在は、目に見えない、役に立たない、無視されやすい存在だが、見方を変えれば気的コミュニケーションの中心であり、家族のつながりや社会的なつながりを内で支えているのは、そういう存在である。
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→こうして人間をとらえると、さらに深く人間を観れるようになる。
「共鳴」「気」という補助線をひくだけで、こういう人間理解に至れるのは素晴らしい。



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生きているということは常に自他の区別と同時に、他者との共鳴によって他者をとりこみ、変化し続けること=関係性を変えながら自己を維持するということだ。
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免疫反応を起こす事によって、疲れの抜けない筋肉の緊張までが完全にゆるむことができる。
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多くの人にとって、できるだけ安定的なリアリティを作り上げる努力をするのが「社会」だと言える。
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「現実」は弾力を失うとその有効性を失うのである。「現実」的文脈が輝きを失って多くの人にとって面白いものでなく、息詰まるものになってしまったら、それは堕落した「現実」
である。
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「現実」から脱落する事は実は意外に簡単だ。しがみついている手をはなしてしまえばよいのだ。ところが、「現実」を失うことの恐怖心も大変大きいらしく、思わず余計しがみつくか、安心できる別のリアリティにまたしがみついてしまう。逆にいえばそれだけ必死に「現実」を守っているのだ。本当は意識の広大な領域のほんの一部の我が領土、特異なリアリティーを日々再生し続けている事の方が実は奇跡的なことだ。よく「現実」にありそうもないことを垣間見ると驚いたり、不思議がったりするけれど、そうならないようにつじつまのあった「現実」を維持している事の方が驚異的なことなのだ。
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「作られた世界」には必ず破れがあって、目に見えない世界の全体性へもつながっている。この知覚されないあるがままの世界が気的世界であり、胎児の世界でもある。
現実世界と気的世界が出あう場が身体である。身体はその両界に開かれている。両界が身体で融合してはじめて世界が生き生きしてくるわけだが、むしろ今、身体は両界に引き裂かれようとしている。
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気的世界が日常世界と接しているのは「いま・ここ」という一点である。
身体は常に「いま・ここ」を生きている。
だから、身体と言う場の危機は、同時に「いま・ここ」という場の委縮でもある。
「いま・ここ」というのは一寸先は闇ということでもあり、あらゆる生の不安のもとでもあるが、もう一方でその一点の見えない世界へのつながりが「生の充実」の根拠でもある。
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日常とは「いま・ここ」を脱落させた平均化された意識が見ている世界であり、瞬間の身体の加速度にあわせず、予定調和的に物事を見る一種の知恵であるが、それが硬直すればやはり不安を抱えることになる。
とくに激しく加速する現在の世界を生きるためには「いま・ここ」に身を投げ出す心構えというものが、かなり大事だと思うのだ。
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→禅(Zen)の境地とも似ています。
僕らが無意識に作りだしている概念(コンセプト)や幻想(マーヤ)にまどわされず、分離する意識(分別知)ではなく、統合する意識(無分別知)で世界を見つめ直せば、この世界はもっと豊かで多様な世界として展開しているのが実感できます。