今日、恥ずかしながら父親(ゆづからするとおじいちゃん)と喧嘩をしました。
大声を出して怒ってきたので、こちらも大声を出して応えました。
「何をゆーてるんや ××|~,△@p¥◆:。※*=」
「はっ、おかしいと思わんのか。。。○@p^■:;×:」
事の発端を話す前に、パパのおじいに対する思いを説明すると。。。。
どうしてもおじいちゃんに対して心から尊敬したり、感謝したりすることが出来ないでいます。
昔からそうです。
なぜなんだろうと考えたことがあるのですが、思い当たることは2つほど
1.本当に尊敬したり、感謝したりする値打ちもない人である。
2.「尊敬したり感謝したりする値打ちもない人である」と刷り込まれて染み付いている。
2なのですが、こういった諍い(いさかい)があると1かもしれないと頭をよぎります。
以前書きましたが、常に「本当に尊敬したり、感謝したりする値打ちもない人」というのはいないはずと頭では分かっているはずなのですが・・・・
では、なぜそんなふうに思ってしまって、そうじゃないだろうと頭で理解できても、否定的な考えが強く心に残ってしまうのか。
これは簡単です。
パパは、母親(ゆづのおばあちゃん)に「この男は最低だ」とさんざん聞かされてきました。
しょっちゅう夫婦喧嘩をして涙を流しているおばあちゃんを何度も見ました。
いや何度も見たというのは間違いで、見たくなかったから泣いているのは知っていたけど見ないようにそっぽ向いていました。
まだ小さい子供の頃のパパは、おばあちゃんの言う事を信じていましたが、ある程度大きくなると、「何が原因か知らないけど喧嘩する事はくだらない」と思うようになりました。
「でかい声を出して罵り合い、自分たちも不快だろうが、関係ない周りも不快だ」と気づいたからです。
パパの妹(アンパンマンの人形をくれたおばちゃんだ)は、パパより小さかったので、おじいとおばあがののしりあいの喧嘩をしだすと「パパもママも喧嘩やめて~」といつも泣いていました。
引越しの時に昔の七夕の願い事や、おまじないの言葉を、パパの妹(ゆづから見たらおばちゃん)が書いた紙を見つけ開いてみると、そこには「パパとママが喧嘩せずに仲良くなりますように」とまだ幼い文字で書いてありました。
「人形やオモチャが欲しい」とか「何かして遊びたい」とかじゃなくて「仲良くして欲しい」です。当時を思い出して胸が締め付けられました。
おばあちゃんはおじいちゃんの事がどうしても好きになれなかったようです。
ゆづも知っているとおり、おじいとおばあは別々に暮らしています。そう離婚しています。
「この人とは一緒に暮らせない」と別れたのです。
でも、別れる事は悪いことではありません。
これからの人生の中でゆづにもいろんな別れがやってきます。
何かを断ち切って次へ行かねばならない場面がやって来る事もあるでしょう。
別れはツライかもしれないけれど、別れる事で良くなる事もたくさんあります。
とにかくこういう背景があり、どうしても心の底から無条件に、おじいの事を好きだと思う気持ちがパパには起こりません。
「パパというだけで子供はパパを愛さなければいけない」という決まりもありません。
パパはゆづちゃんに好きと思って欲しいけど・・・・
さてこういった根深い背景を頭に入れながら、今日の喧嘩を記しておきます。
おじい&ワンちゃんが散歩から帰ってきました。 

ゆづ&パパが幼児園から帰ってきました。

ほぼ同時です。
ゆづがワンちゃんに恐る恐る近づきます。
すでにワンちゃんは鎖につながれており行動範囲が限られています。それでも飛び掛ってくるかも分からないのでパパがゆづの後を追い見張っています。
ワンちゃんが吼えます(見知らぬ人が近づいてきたときの威嚇する吼え方でない)
ゆづはちょっと驚いて近づくのをやめてパパに抱っこをせがみます。
そこでおじいが「こらっ! やかましい 吼えるな」と怒鳴りつけ、
ワンちゃんの鎖を引っ張り、2,3発、体にケリを入れて足で犬の頭を踏みつけました。
(力の加減をしているようには見えません)
これは、ゆづに見せたくない光景だと思い、急いでゆづを抱きかかえてこう言葉が出ました。
「悪い例やぞ。ゆづ」
この一言におじいはプッツンしたようで、家に入って手を洗って野菜ジュースを飲んでアンパンマンのビデオを見ているところに大声で怒鳴り込んで来ました。
(注意:口は災いの元)
おじい曰く(いわく)
「ゆづちゃんに向かって吼えているのをやめさせようと思ってやった事や。悪い例とはなんや。犬は、ああやって足で蹴って教えるもんや!」
どこまで本気で言っているのかわかりませんが、デカイ声で怒鳴ります。
このあと「お前に教えるのと一緒じゃ~」と続くのです。
「お前」というのは「パパ」の事です。怒りで正常さを失っているとしか思えない発言です。
それほどパパの一言に対してムカついたのでしょう。
あの場面では、「ゆづに吼えるからゆづの為に、おじいは犬に蹴りを入れて頭を踏みつけた、とゆづに教えるべきだった」らしいです。
「そんなふうによー教えんわ!!」
(犬に蹴りを入れて頭を踏みつけるのは、ゆづへの愛情。ゆづの為だ)ってか・・・・
「犬が飛びかかり今にもゆづが咬まれそう」という場面であれば間違いなくパパも蹴りを入れていたでしょう。たとえよその飼い犬でも。しかし襲い掛かってこない限りは何発も蹴りを入れたりするはずもない。
そういえば、こんな話を思い出した。
「偽」(にせ)という字は、ニンベン(イ)に、タメ(為)と書く。「人の為」「あなたの為」というヤツは「偽もの」が多いから気をつけろ。
こちらが好意をいだいていないのに相手がこちらに好意をいだくはずがないから、「犬への教育とお前の教育は同じだ」と普通は言うはずのない言葉を発したことに対しては不思議とひとつも腹が立ちませんでした。
しかし、デカイ声を出して感情むき出しにペットの犬に蹴りを入れたり、怒りに任せて怒鳴ったり音を立ててドアを思いっきり開閉する行為に無性に腹が立ったのです。
どういう理由があろうがそういった威嚇行為は、パパの妹(おじいの娘でもある)が、幼いながらに「仲良くなりますように」と願わせたような切ない気持ちしか子供に与えない、とコイツは未だに全然、わからんのかと。
こんな話も思い出した。
イスラム教を信じる人たちは豚肉を食べない、というのはよく知られているのですが、それは豚が不浄な生き物とされているから。豚と同じように犬もイスラム教では不浄とされています。
そして、喧嘩になると「この豚やろう」というののしり言葉を発するのですが、その言葉以上のののしり言葉として「この犬やろう」も使うようです。
もうひとつこんな話も。
「60歳を過ぎれば怒りの感情をコントロールする力は、3歳児なみに落ちる」
怒鳴ってきたおじいに対してパパも怒鳴り返したのだけど、こういう場面をゆづに聞かせない方が良いという事が頭に浮かんでいたので、チラッとゆづの方を見ました。
案の定、ゆづはビックリしていて、目をパチくりしてパパとおじいを見ていました。
一言だけ怒鳴って出て行くのか思っていたら、怒りが治まらないらしく、ドアを乱暴にバガッと閉めたかと思うと、またやって来て「何事かを怒鳴ってドアを激しく閉める」を数回繰り返しました。
デカイ声で言っていた内容は「お前、オレの面倒を看る気あるのか」「お母さんと住め」「金返せ、出て行ったる」など。
冷静になって言葉の裏を読めば哀れみを感じずにはいられないものでした。
子供は良いも悪いも親の性質を引き継ぐと思っているので、自分が父親の年齢になってこんな言葉を発すると思うとゾッとします・・・・
「ゆづちゃん、ビックリさせてごめんな~」と言って抱っこしたのですが、
すぐ目の前に勃発した事柄が理解できないようで、しばらく固まっていました。
また、パパ vs おじい の戦いは勃発する危険は常にあります。
愛(= 相手のことを思う気持ち)は、押し付けがましい一方通行では、意味を成さないばかりか害という事もありえます。(「子供への躾」という問題もからんできますが、ここでは触れません)
必要としていない愛を押し付けてくる例はいっぱいあるでしょう。
いつでも「愛=善」ではないはず。
「愛情ゆえに犬にケリを入れ頭を踏みつける」これは善か?
「愛情ゆえに、これは悪いと教える」事でいさかいが起こってしまった。これは善か?
人生の善悪は難しかぁ~
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